姫路菓子の歴史

 江戸時代の後期、藩主酒井家の歴代の当主が教養人であり、茶の湯を好んだことから姫路城下の文化は大いに発展することになりました。しかし、天保年間の藩主酒井忠以の頃、財政は窮乏、家老の河合寸翁は財政再建を志し、藩政改革を行うと共に、諸国の物産を城下に集積して商業、物流を盛んにしました。この寸翁が藩主同様茶人であったことから、産業振興の一環として和菓子づくりを奨励、職人を江戸や京都、長崎まで派遣し、製造技術を習得させました。

 和菓子は、茶の湯の広がりとともに播州地方一帯に広がり、油菓子は「播州駄菓子」として良質な原材料をもとに全国にその名を馳せました。

 大正元年に発行した姫路市内の当時の産業の様子を記した「姫路紀要」の「姫路菓子」の項目の記すところによると菓子製造者が姫路城下(船場の博労町一帯)に軒を連ね、盛況を極めました。また明治45年に第1回全国菓子大博覧会に出展するために姫路の菓子業界が一体となって組合を結成し、更なる菓子の向上を目指したことが分かります。 

大正元年刊 『姫路紀要』(1912)姫路紀要編纂会 「二十一、姫路菓子」より引用

「姫路菓子は古来産額多し、その主なるものは雑菓子*にして元禄年間に萌芽を発し、天保の頃より需要を増し、幕末のころには博労町一面その製造に従事す。維新後一層盛況を加え博労町より米田町にかけて*製造家軒を並べ、付近群村に向て盛に販出す。其の産額優に二十萬円上れり、内町部また製造家多けれども製菓は所詮上物*に属す、之を加えれば三十萬円に達すべし。

 姫路菓子商保営会なるものあり、又別に製菓組合あり明治42年の創立にして博覧会出品の勧奨製菓の改良を謀り、明治44年6月全市同業者132名を網羅してさらに姫路菓子協会を設け製菓の改良統一を謀り且つ同業者の親交を温めんとす。製菓界の近況は、いよいよ有望の域に進めり、(一部抜粋)」

※雑菓子=駄菓子

※博労町より米田町にかけて:姫路城下南西部に多く菓子製造業者が集中していましたが、空襲により多くが消失し郊外へ分散しました。

※上物=上菓子

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『姫路紀要』1(部分)

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『姫路紀要』2(部分)